堀川めぐりのご紹介

 松江城を囲む堀は一部、築城(1611年)と同時に造られ、今もそのままの姿を残しています。
このように城と堀が当時のまま現存する城下町は全国でも珍しく、この堀を小舟でめぐる「堀川めぐり」の醍醐味は、舟に揺られながら見る松江城下の懐かしい日本の風景、築城400年の時を越えその姿をいまだに残す森の自然や堀の美しさを四季を通じて楽しめることです。
写真 川面を渡る風は時を忘れさせ水辺の鳥たちは訪れるものの心を和ませてくれます。
堀川には16もの個性ある橋がかかっていて、その内4つは、橋げたが低く舟の屋根を下げて通ります。

松江城下の特徴

クリックで拡大 現存する天守をもつお城は、松江城を含めて12城、古さでは6番目です。

 外堀、内堀は、一部埋め立てられたり、幅が狭くなっていますが、ほぼ完全な形で残存しています。
西内堀と北堀には、経済的や労働力、城の立地条件などから石垣が築いていませんが、そこに古木が生え繁り周囲の情景とマッチしています。
 江戸時代の城下絵図と現在の住宅地図とを比較すると、城下の堀・町の構造がほとんど変化がないことがわかります。
T字路、鍵方道路もほぼ同じ。
城を中心として町があり、お城が町に溶け込んでいます。

 このような要素が相まって、松江は旅行者にも不思議な落ち着きを与える城下町です。

松江の歴史

松江城周辺の写真 堀尾吉晴・忠氏父子は、関ヶ原の合戦(1600年)後、徳川家康の命を受け、出雲・隠岐の太守としてこの地に赴いた。忠氏亡き後、吉晴は拠点を広瀬から松江に移し、築城に取り掛かったのが1607(慶長12)年。ここから城下町・松江の歴史は始まり、城が完成する1611年までに現在の松江の礎が築かれていった。

 吉晴、忠氏父子は広瀬の月山富田城に入城したものの、戦国期には難攻不落を誇った山城も、近世では時代遅れ。政治、軍事だけでなく、経済機能と武士を住まわせる城下を必要としていました。

 吉晴が松江を選んだ理由は「交通の便に恵まれている」「城下町を形成する平地がある」など。当時、最大の交通手段だったのは船。大橋川、中海を通じて国内諸国はもとより、海外まで見据えることができる要害の地・松江は、大きな飛躍の可能性を感じさせる地として吉晴の目に映ったことでしょう。

 吉晴、忠氏父子は、松江市の南に位置する床几山に上り、城地や城下の場所を選定したと伝えられています。そして地形、広さなどから、標高28.4メートルの亀田山(別名・極楽寺山)に城を構え、城下を形成していきました。

 堀尾氏の後、京極氏、松平氏と藩主は代わりましたが、松江は城下町として発展し続け、吉晴が床几山から松江の地を見て思い描いた夢の先に、今の松江の街の姿、住民の生活があります。

 今も、松江城をはじめ、城を囲む堀川、武家屋敷、塩見縄手など江戸情緒を随所に残しています。松江市は、創建当時の姿を伝える松江城とともに、現存する町割りなど、城下町研究にとって全国的にも貴重な都市、といわれています。

松江城の写真 特筆すべきは松江城。こんな逸話があります。廃藩置県に伴い、松平家から陸軍省の管轄になった松江城(当時は千鳥城と呼んだ)は、払い下げられることになり、天守閣は百八十円(米一俵が三円弱)で落札されました。これを聞いた出東村(現斐川町)の豪農勝部本衛門が、旧藩士の高城権八らとともに保存に立ち上がった。そして、熱意は通じた。櫓(やぐら)などは落札され、解体されましたが、天守閣だけは残りました。後に、松平家の末裔が城一帯を買い取り、1927(昭和2)年、松江市に寄付、現在に至ります。まさに民間による文化財保存活動のはしりです。

 歴史と文化に彩られ、長い時間をかけ深い趣を蓄積してきた松江は、1951(昭和26)年、京都市、奈良市に次いで「国際文化観光都市」に指定され、大きく躍進します。

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